dēsīderium(デージーデリウム):憧憬

山下太郎先生のラテン語講習会https://aeneis.jp/?p=2722の、セネカの『人生の短さについて』の講読クラスに参加しています。作品中には、印象に残る名句が数多く出てきますが、私の中で教訓となっていることが、次の文章です。

 Praecipitat quisque vītam suam et futūrī dēsīderiō labōrat, praesentium taediō.(7-8)

各人は(quisque)、自分の(suam)人生を(vītam)むやみに急き立てる(praecipitat)
未来への(futūrī)憧憬によって(dēsīderiō)あくせくする(labōrat)
今ここにあるものに(praesentium) 倦怠感(taediō)を感じつつ

 若い時、”成功するための~つの方法”、とか、”なりたい自分になる~つの習慣”のような本をときどき手に取りました。それが、セネカのこの文で言うと、”未来への憧憬”という言葉で表されているように思います。つまり、安定した素敵な自分のイメージなどのことです。でもそれを目標にすると、どうなってしまうか。”今このとき” がどんどん奪われていきます。それが、”自分の人生を急き立てる”、”あくせく働く”ことです。そして実際は、際限なくめぐってくる仕事に”倦怠感”を感じるようになり、いつになったら、このことが終わるのか、早く自分の時間をもちたいと願うことになるわけです。死ぬときになって、「私にはしたいことをする時間がなかった」と嘆くが、もはや遅し、とも言っています。なんとも恐ろしいことです。

 しかしながら、単純に”成功”への憧憬だけではないのです。誰でも「いい人」「いい親」「いい〇〇」など、役に立ちたいという「憧憬」があります。そのことも落とし穴だと思います。愛を感じているか、倦怠感(taediō)感じているか、それがバロメーターだと思います。後者の場合は、大切な時間が奪われているのかもしれません。

 セネカは、自分の時間を管理し、”今を生きよ”と言います。そうすれば、結果的によい評価がついてくるかもしれない、お金が入ってくるかもしれない。それはそれで付け足しのようなもの、運にまかせればよい。人生にはすでに満足している状態なのだから、何を待ち望むこともなく、恐れることもないと。

 ”今ではない、いつか、なりたい自分(憧憬:dēsīderiō)”が人生の目的ではないということをセネカは教えてくれました。今、充たされているか、です。読んだときは、とても新鮮でした。意外ではありましたが、すぐ納得できました。どうして学校で、世の中で、あまりこのことが言われないのだろうと、今では不思議に思うくらいです。「〇活」(私の年齢では、老活、終活…など)という言葉が多々ありますが、これら”備えのわざ”に時間を費やすのは、セネカの言う「今を生きること」と正反対ということになりましょうか…。

〈ラテン語 語釈:〉

  • praecipitat : praecipitō, -āre (むやみに急き立てる)直説法、能動態、現在、3人称単数
  • quisque :不定代名詞 (各人)男性、単数、主格
  • vītam :vīta, -ae f.(人生)単数、対格
  • suam :所有形容詞(3人称)(自分の)女性、単数、対格 vītamにかかる
  • et :接続詞(そして)
  • futūrī :futūrum, -ī n.(未来)単数、属格 (目的語的属格)dēsīderiōにかかる
  • dēsīderiō :dēsīderium, -ī n. (憧憬、希求)単数、奪格
  • labōrat :labōrō, -āre (働く、あくせくする)直説法、能動態、現在、3人称単数
  • praesentium :形容詞praesens, -entis (今、ここにある)中性、複数、属格 taediōにかかる (名詞的用法、目的語的属格)
  • taediō:taedium, -ī n. (倦怠感)単数、奪格 仕方を表す

Citharoeus:キタラ弾き

Citharoedus ridetur chorda qui semper oberrat eadem.
キタロエドゥス リーデートゥル コルダー クゥィー センペル オベッラト エアーデム

(逐語訳:
いつも(semper) 同じ(eadem) 弦で(chorda) 間違える(oberrat) キタラ弾きは(citharoedus)、笑われる(ridetur))

この文は、古代ローマ時代の詩人ホラーティウス(B.C.65~同8)の『詩論』からの出典です。(山下太郎先生の『しっかり身につくラテン語トレーニングブック』の中に出題されていた文で、教科書では、”同じ~”を表す、īdem, eadem ,idem という言葉のレッスンです。山下先生は、問題文をすべて古典の原文より採用されていますので、問題に取り組むと、同時に名言を読めるので、本当に楽しく学ぶことができます。)

文を見て、どきりとして、すぐ正解できました(笑)。楽器をやっている人は皆さんそうではないでしょうか。いつも間違えてしまう苦手なところは必ずあるものです。なんとローマで紀元前から言われていたことなのですね。ちなみにキタラとは、写真の女性が持っている楽器です。

この文は、しかしながら、大変深い意味を伝えているように思えます。ホラーティウスは、ただ単に、間違えることそのものを非難しているのではないようです。楽器の調子による音程やたまたまのミスに関しては寛大です。何度も同じところを間違えるのにそれを直さないことにNOと言っているわけです。

私は趣味でピアノを弾きますが、練習していると、曲の中になぜかいつも間違えてしまう箇所があるものです。自分は自分に甘いもので、少し練習して1,2回できるようになると、”まあ、いいかな”と、できたつもりになります。でも人前で発表するとやはりそこをミスしてしまうのです。練習のときに、いかに自分に厳しくなれるか、その部分に根気よく向き合うことができるか。ホラーティウスのこの文は、そこまでやったかどうかを指摘しているのではないかと思えてきます。その個所に苦手意識がなくなって、ほかのところと同様にすっかり自然になって、初めて全体をスムーズに奏でることができます。言うは易し…。

歌心のある演奏は心地よく、聴くものの心をどこか素敵な場所へ誘ってくれます。プロの方々は難なくそのように演奏しているように見えますが、その背景には、膨大な練習時間、自分と向き合う厳しさがあるのだと思います。そしてそのことに改めて敬服する次第です。

ラテン語 語釈:

  • citharoedus :「キタラを弾じながら歌う人」第2変化名詞citharoedus, -ī m. 単数、主格
  • ridetur :「笑われる」第2変化動詞 rīdeō, -ēre 直説法・受動態・現在 3人称単数
  • chordā :「弦の腸線で」第1変化名詞 chorda, -ae f. 単数 奪格
  • quī :「~ところの(人)」関係代名詞 男性、単数、主格 citharoedusを受ける 
  • semper :「いつも」副詞
  • oberrat :「間違える」第1変化動詞 oberrō, -āre 直説法、能動態、現在 3人称単数
  • eādem:「同じ~」指示代名詞 īdem, eadem, idem の女性、単数 奪格 chordāにかかる

animus(アニムス):魂

山下太郎先生の『ラテン語を読む キケロ― スキーピオーの夢』を読みました。先生の一字一句の解説のおかげで原語で作品を読むことができたことを大変うれしく思います。感謝の念に堪えません。

年明けに母が他界しました。母の傍らで私は作品中の、istīs tē corporis custōdiīs līberāverit(15節)((神が)あなたを体のその牢獄から解放した)という箇所を思い出していました。その時でなければ天国への入り口は開かない”という文脈です。母は身体的に辛い状態が続いていましたが、その時間には最後の瞬間まで意味がある、と思えました。偉大な古典作品の一文を切り出して、自分事に引きつけてしまいましたことをお許しください。それでも、私にとっては確かに大切なことばとなりました。

死後どうなるかということに関しては様々な説があります。作品の最後の節では、二つの大きな道が語られているように思えます。最善の仕事に駆り立てられ鍛えられた魂は自らの神の家にすみやかに帰る。(exercitatus animus velocius in hanc suam sedem et domum pervolabit) 一方、身体を快楽にゆだね(dēdidērunt)差し出す(praebuērunt)ような人の魂は地球そのものの周りを転がりまわり、神の家にはなかなか戻ることはできない、と述べられます。(animī…corporibus ēlapsī circum terram ipsam circum volūtantur )文字通りこれが”輪廻”というものではないか、と思いました。過去の世からもう何度も転がり回ってきたように思える私ですが、いつか魂(神性、仏性といってもよいでしょうか)に従って生きられたとき、真のふるさとへ帰れるでしょうか。

appetītus:欲望、渇望

用事があって、ある大学へ行ったら、食堂の入口にラテン語を見つけました。

APPETITUS RATIONI OBEDIANT と彫られていました。

「欲望は理性に従うべきである」という意味で、キケロ―の文章からの引用だそうです。食堂ですから、日本語風にいうと、「食べ過ぎないこと、腹八分にしなさい」などとなるでしょうか。面白いです。(まだラテン語は初心者なので、自信ありませんが、OBEDIANTは、OBOEDIATでは …?わかる方、教えてください。)

tempus/テンプス:とき

ラテン語に、時や時間を表す言葉として、tempus(テンプス) と hōra(ホーラ) という二つの表現があることに気づきます。辞書を見ると、二つには重なる意味もあるようですが、大きな違いは、tempusは「(ある物事にとって、しかるべきとき、ふさわしい)とき」という意味で、一方のhōra は、いわゆる「時計が告げる時刻、時間」という意味で使われるようです。(ちなみにミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる マイスター・ホラ の”ホラ”はこのラテン語が語源だそうです)

先日、ラテン語の課題で、Omnia suō tempore facienda sunt. という文を訳しました。

すべてのことは (omnia)、そのものの(suō)ときにおいて(tempore) なされるべきである(facienda sunt)

子どもの成長、大人の学び、そういったことも、このラテン語の言う通りだと思います。子どもは感受性豊かな小さいうちは自然の中で”不思議”にたくさん出会ってどきどきしなければなりません。そんな”とき”を無視して、正解を与えるような勉強をさせても、それは子どもにとって「ふさわしいとき」ではないはずです。そんなことをすれば、本来味わう必要などない苦しみ(=hōra(時間)に追われる感動のない日々)をその先子どもに負わせることになりかねません。また、歳を取って(わたしのラテン語ように)本当に学びたいものに出会うこともあります。ときどき記憶力の衰えを哀しく感じ、若い時に始めていればよかった、などと思うこともありますが、やはり、私にとっては、”そのとき(tempus)”が今だったのです。だからこそhōra(時間)に追われることもなく、楽しめるわけです。

日本語で、「棚上げにする」という言葉がありますが、若いころ、このことは良くないことだという気持ちが強かったと思います。歳を取って、ずいぶんと変わりました。今は、すぐには解決できない物事はとりあえず棚上げにすることも賢い選択だと思っています。不思議と、遅かれ早かれ解決する”とき”はやってくることを経験で知りました(しかも予想もしていなかったような、たいていはよい仕方で)。この言葉は日本語としても面白く感じます。棚の”上”に上げておくというわけですから、地面に埋めて見えなくするのではなく、きちんと大事にしてときどき見上げ、よいタイミングを待つわけです。

そのものの(suō)とき(tempus) になされたことが集まって、本来の姿が作られるとしたら、そのもののときでないときになされたことは、本来の姿ではない姿へと変わっていってしまう。考えてみれば”とき”の間違いは恐いものです。

〈ラテン語語釈〉

  • horā:第1変化名詞 horā, -ae f. (時間、時刻)
  • omnia:omnis, omnis, -e 第3変化形容詞(あらゆる、すべての)中性、複数、主格 名詞的用法「すべてのものごとは」
  • suō:3人称の所有形容詞 (自分自身の)中性、単数 奪格 temporeにかかる
  • tempore:第3変化名詞 tempus, -poris n.  (とき、季節)単数、奪格 ~において
  • facienda:第3変化動詞 faciō, -cere (行う、与える、作る)の動形容詞 中性、複数、主格 (作られるべき、なされるべき)
  • sunt:不規則動詞 sum, esse (~である)の直説法、能動態、現在 3人称複数

ōtium(オーティウム)-2:閑暇 (2)

昨日、山下太郎先生のラテン語講習会https://aeneis.jp/?p=2722で、セネカ『人生の短さについて』12章6-8節を読みました。印象に残ったところを記しておこうと思います。

セネカはここで、上流階級の人々の”たるんだ生活”を辛辣に批判しています。どこへ行くにも、何をするにもお付きの者たちが迎えに来て、お輿に乗せてくれ、運んでくれ、椅子に座らせてもくれる。あげく、そういった人は、何も感じたり考えたりしなくなり、「私は今もう、座っているのかね?(Jam sedeō?)」と尋ねるあり様です。食事も同じで、お腹が空いているのかどうかもわからなくなっています。

もっと始末に負えない輩は、こういった甘やかされた状態を、上流生活のシンボルと思っていて、わざとそんなふうに演じる人もいるとか。寝起きや食事など、自分の生活を自分で管理するのは、賤しいものたちのすることだと言うわけです。

さて、表題のotium「閑暇」という言葉ですが、セネカはこの言葉を特別な意味で使っています。ただの”暇”ではなく、それは自分に向き合う時間です。また、どう生きるべきかについて考え、先人(哲学者たち)の書を読み、彼らと対話するような時間です。先に述べたような、退廃的に浪費する時間は、決して「閑暇」とは言わないのです。それが表れているのが、次の文です。セネカは「閑暇」を「生きること」「見ること」と並べています。(逆に言えば、「本当の意味での閑暇」を持たないことは「生きること」や「自分の目で見ること」を放棄していることを意味するのではないでしょうか。)語調もとても面白いと思いました。

Hunc tū ignōrantem an sedeat putās scīre an vīvat, an videat, an ōtiōsus sit?

(自分が座っているかどうかも知らない者が、生きているかどうか、見ているかどうか、閑暇にあるかどうか、知っていると?(そんなはずがない))

〈語釈〉

  • hunc:指示代名詞(hic, haec, hoc) (これ)の男性、単数、対格
  • tū:2人称の人称代名詞 単数、主格
  • ignōrantem:ignōrō, -āre (知らない)の現在分詞、男性、単数、対格 「知らない者」
  • an:「~かどうか」
  • sedeat:動詞sedeō, -ēre (座る)接続法、能動態、現在、3人称単数
  • putās :動詞putō, -āre (考える)直説法、能動態、現在、2人称単数
  • scīre :sciō, -īre (知る)の不定法、能動態、現在
  • an :「~かどうか」
  • vīvat :動詞vīvō, -ere(生きる)接続法、能動態、現在、3人称単数
  • an :「~かどうか」
  • videat :動詞videō, -ēre(見る)接続法、能動態、現在、3人称単数
  • an :「~かどうか」
  • ōtiōsus :形容詞ōtiōsus, -a, -um (暇な)男性、単数、主格
  • sit:不規則動詞 sum, esse の接続法、現在、3人称単数

honestus/ホネストゥス:立派な

昨日、山下太郎先生のラテン語講習会(https://aeneis.jp/?p=2722)でセネカの『人生の短さについて』(12-3~5)を読みました。その中で、印象に残った文について記します。

・・・quī comptior esse mālit quam honestior (より立派な者であることより、より飾られた者であることを望む人)、そんな人間をセネカは批判し、”飾る”ための時間とは”怠惰”であり、真に”生きている”時間には数え入れないといいます。具体的には、理髪店で理髪師に対してあれこれ細かく注文をつけたり、思ったとおりにできないと激怒する”髪がいのち”のような客が例にあげられていました。繁栄を極めた当時のローマの世相が垣間見られる面白い下りです。いつの時代にも、豊かさの裏でありがちな話だと苦笑いしてしまいました。

単語としては、honestus(立派な、高潔な…英語honestyの語源)の比較級honestiorと、comptus(飾られた、優美な)の比較級comptior が対照的に使われています。前者は本質的な高潔さ、後者は表面的な美しさという対比です。

また、やはり批判の的となっているのが、以下のような人々です。

・・・ut nec bibant sine ambitiōne nec ēdant.(人気とりばかり考えているため)誇示することなしには、食べも飲みもしなくなっている人。豪華な宴会で、おまちかねの演出たっぷりに丸焼きのイノシシが出てきます。さらに巧みな包丁さばきで切り分けられる肉料理に大満足。そして吐くほどに酔う、それが贅沢だともてはやされ、人気をとるわけです。今風にいえば、飲んだり食べたりするのは、”映える”料理で”いいね”をもらうため、ということになります。こういった人たちの時間の過ごし方をセネカは痛烈に批判しています。言葉が切り出す場面が印象的でした。

山下先生の教科書(『しっかり学ぶラテン語』)の中に、サッルスティウス(B.C1世紀の共和制ローマの政務官)の言葉が載っています。Esse quam vidērī bonus mālēbat.(彼は立派だと見られることよりも立派であることを望んでいた)(『カティリーナ戦記』54) 

真実と虚飾。繁栄するローマにおけるテーマだったのだと思います。それがいまだに通じることにあらためて驚きます。

〈語釈〉

  • quī: 関係代名詞(~ところの者)男性、単数、主格
  • comptior :第1,2変化形容詞comptus, – a, -um(飾られた)の比較級 男性、単数、主格
  • esse :不規則動詞sum, esse 不定法、能動態、現在 (~であること)
  • mālit :不規則動詞mālō, malle (むしろ望む)直説法、能動態、現在、3人称単数
  • quam :副詞(~よりも)
  • honestior :第1,2変化形容詞honestus, -a, -um (高潔な、立派な、尊敬に値する)の比較級 男性、単数、主格
  • ut :接続詞 ・・・の結果として(後続のようになる)
  • nec :接続詞 ~でなく、~でもない
  • bibant :第3変化変化動詞bibō, -ere (飲む)接続法、能動態、現在 3人称単数
  • sine:前置詞 (~なしに)
  • ambitiōne :第3変化名詞ambitiō, -ōnis f. (誇示、人気取り)
  • nec :接続詞 ~でなく、~でもない
  • ēdant:第3変化変化動詞ēdō, -ere (食べる)接続法、能動態、現在 3人称単数
  • esse :不規則動詞sum, esse 不定法、能動態、現在 (~であること)
  • quam :副詞 (~よりも)
  • vidērī :第2変化動詞 vedeō, -ēre(見る)不定法、受動態、現在(見られること)
  • bonus :第1,2変化形容詞 bonusu, -a, -um (良い、優れた、立派な)男性、単数、主格
  • mālēbat:不規則動詞mālō, malle (むしろ望む)直説法、能動態、未完了過去、3人称単数

disciplus/ディスキプルス:弟子

山下太郎先生の、(2023/10/28)「ラテン語の夕べ」https://www.kitashirakawa.jp/yama-no-gakko/?p=15569でとりあげられた格言の中で、印象に残ったものを記しておこうと思います。

Disciplus est priōris posterior diēs. :後の日は、前の日の弟子である。            (プブリリウス・シュルス 『金言集』201)

これは、言い換えると、”前の日は、後の日の先生”となりますね。自分の経験(=前の日)が、今の自分(=後の日)の先生となっているのだ、という意味です。(最初はどちらがどちらの弟子か、この文は難しいと思いました。)

日本語の「先生」は、文字通り、自分より”先(代)を生きる人”であり、知識も経験も豊富であるわけで、自然に謙虚な気持ちが湧きます。しかし、これが自分自身の過去だと考えると、そのようにはいきません。前の日に何か失敗したとします。恥ずかしくて、人と顔を合わせることもできず、できればなかったことにしたいとさえ思います。”ああ、なんて馬鹿なわたし。情けない”とか、”穴があったら入りたい”と感じます。

しかし、上の格言は、その過去の自分こそが今の自分の師だというのです。恥をかいてまで教えてくれた師に敬意を表さなければなりません。ありがとう、ありがとう、とつぶやいているうちに、過った自分に鞭打つことなど到底できなくなります。そんな自分への敬意といたわりによって、初めて”穴”から出て、新鮮な空気を吸い、力が湧き、成長が始まるのではないかと思います。失敗しても、その都度、”先生ができた”、と思えるようになれば、こんな心強いことはありません。そしてその先生に対しては、目を背けず、向き合わなければなりません。

でも、残念ながら、人間は忘れやすい生きものです。何回も経験によって学び直さなければなりません。冒頭の名言は、それゆえ「一日」単位なのでしょう。歴史を振り返れば、私たちは恐ろしい失敗を積み重ね、それを”師”として学び、平和を築いてきたはずなのに、また同じ過ちを繰り返しています。セネカも、Longum est iter per praecepta, breve et efficax per exempla.(教訓による道のりは長く、実例による道は短く効果的である)と言ったそうですが、それが恐ろしい皮肉にさえ聞こえます。犠牲をもって教えてくれた過去=「先生」を裏切ってはいけない。すぐには忘れないよい「弟子」でありたいと心より思います。

〈ラテン語語釈〉

  • disciplus :名詞 diciplus, -ī m. (弟子)単数、主格・・・補語
  • est :不規則動詞sum, esse (~である)直説法・現在・3人称単数
  • priōris :形容詞 primus, -a, um の比較級 prior, -or, -us (より以前の) 単数、属格  省略されたdiēī (日)属格 にかかる 「前の日の」→disciplusにかかる
  • posterior :形容詞 posterus, -a, -um の比較級 posterior, -or, -ius (より後の、それに続く)単数、主格 diēsにかかる 「より後の日は」・・・文の主語
  • diēs:名詞 diēs, -ēī c.(日) 単数・主格
  • longum :形容詞 longus, -a, -um (長い、長期の)中性、単数、主格
  • est:不規則動詞sum, esse (~である)直説法・現在・3人称単数
  • iter :名詞 iter, itineris n. (道、行程)
  • per :前置詞 〈対格〉をとおって、によって
  • praecepta:praeceptum, -ī n. (教訓)単数、対格
  • breve :形容詞 brevis, -is, -e (短い、短時間の)中性、単数、主格
  • et :接続詞 (そして)
  • efficax :形容詞 efficax, ācix (有効な、効果のある)単数、主格
  • per 前置詞 〈対格〉をとおって、によって
  • exempla:名詞 exemplum, -ī n. (先例、手本)中性、単数、対格

ōtium(オーティウム):閑暇

今日は、セネカ『人生の短さについて』12章-2を、山下太郎先生の講習会で読みました。

その中の印象に残った文です。

Quōrundam ōtium occupātum est: ・・・quamuis ab omnibus recesserint, sibi ipsī molestī sunt: quorum nōn ōtiōsa uīta dīcenda est sed dēsidiōsa occupātiō.

訳:ある種の者たちの場合、閑暇は多忙なのである・・・たとえすべての物事から離れたとしても、自分にとって自らが悩みの元となる。・・・彼らのそのあり様は、閑暇と言われるべきではなく、むしろ怠惰な多忙と言われるべきである。

かたちばかり、世俗からはなれようと、静かな別荘に行ったり、また、一人の時間に浸ってみたりしても、富や権力、名誉などのことばかり考えているのなら、心は穏やかになることなく、閑暇とは言えない、ただの”怠惰な多忙”と言うべきだ、とセネカは言います。

山下先生は、ホラーティウスも同じようなことに言及しているとご紹介くださいました。先生のHPにご解説があります。https://aeneis.jp/?p=1052https://aeneis.jp/?p=1052 Caelum non animum mutant qui trans mare currunt.「海を越えて行く者は空を変える(だけだ)」(=ころころ住む場所を変える人は精神を変えることはない)」

すべては自分の内側からしか、変わらないのですね。”Peace begins with me”(平和は私から始まる)なのだなということに、あらためて気づきました。

Ades animō :アデス アニモ―

「落ち着け」という意味の熟語。(キケロー『スキーピオーの夢』に出てくる言葉です。)

ades:adsum = assum,adesse(そこにある)の命令法・能動態・現在・2人称単数「そこにあれ」

animō:animus, -ī, m(心)の単数・奪格 「心において」

直訳すると、「心にあれ。」となります。

日本語には「浮き足立つ」という言葉があります。心が落ち着かず、不安や怖れにとらわれ、逃げ出そうとする意味ですが、足が浮くとは、まさに自分が心から離れようとしているようで、おもしろい表現だと思います。

こんな状態をびしっと二語で戒めるのが”Ades animo.”。「自分の心とともにあれ」「落ち着け!」など、いろいろに訳せますが、とにかく短くて覚えやすい。これも座右の銘となりました。

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