Dūcunt volentem fāta.  (ドゥークント ウォレンテム ファータ)

タイトルの意味は「運命は望む者を導く」です。実はこの文には後半が続きます。それは、nōlentem trahunt (ノーレンテム トラフント)「(運命は)望まない者を引きずる」。つまり、 「運命は望む者を導き、望まない者を引きずる」という一文で、ローマの哲人セネカ(紀元前1頃~65)の言葉です。

ここにあるラテン語 fāta(ファータ)>fatum(ファートゥム)は「運命」と訳されますが、この言葉は「その人の行くべき道、天命」のような意味があります。(同じく「運命」と訳される、変わりやすいラッキーやアンラッキーを表すfortūna(フォルチューナ)とは違い、不動のものです。)

毎日、”導かれている”と感じますか。それとも”引きずられている”と感じますか。セネカの言葉によれば、”導かれている”と感じるなら、やっていることを自分が望んでいることになります。確かに、大変だけれどやってみるとスムーズに事が運んで、気が付いたらできていた、なんていうことがありますが、それは天命に導かれたからなのかもしれません。そのことは天命に沿ったことだったのでしょう。

一方、”引きずられている”と感じるなら、自分は今やっていることを実は望んでおらず、拒んでいることになるわけです。「引きずられている」というのは、望まなくともやるべきことですよ、と”引っ張ってもらっている”ということかもしれませんし、道をそれてしまっていて、本来行くべき道に戻そう、戻そうとされているということかもしれません。その場合は「あなた、違う道を行ってますよ」というサインで、ちょっと立ち止まって考えてみるべきなのかもしれません。

ちなみに、いま私はラテン語を学んでいますが、すばらしい先生、よい仲間のおかげで不思議なほど順調に進み、楽しいです。今年の春から始めたのですが、その前はラテン語のラの字も知らなかったことを思うと、まさにこれは運命に”導かれている”ということでしょうか?だとしたらうれしいことです!そういえば学生の頃に勉強していた語学は嫌々ながら”引きずられる”ようにやっていたと思います。でもそこで学んだことが少なからず自分の語学的な基礎になっているわけですから、引きずられながらも、このラテン語の道に辿り着く途中に私がいただいた貴重なお土産だったのかもしれません。

  • dūcunt :dūcō 動詞「導く」三人称複数
  • volentem:volō  現在分詞(形容詞の働き)「望む」単数 対格 「望む者を」
  • fāta:fātum 中性名詞 複数 主格「運命は」
  • nōlentem:nōlō 現在分詞(形容詞の働き)「望まない」単数 対格 「望まない者を」
  • trahunt:trahō 動詞「引きずる」三人称複数

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう